歴史

福相寺の歴史について

西暦 出来事
1624~43年(寛永年間) 正住院日協聖人により開山。
1790~1799年(寛政年代) 16世日元上人の祈祷により大阪の豪商佐藤氏の病気が全快。最澄作という満願大黒天が贈られる。
1800年初頭 大黒堂が建立される。
1816年 願満大黒天縁起木版の再販の記録あり。
1821年 大黒堂の新築を伴う福相寺の大修繕。
1823年 現在の本尊(林如水作)が奉納される。
1850年 一対ずつの「狛鼠像」「幟立て」「石灯篭」が奉納される。
1885年 森岡家により庭園の寄贈。
1914~1918年 第一次世界大戦
1918年 現在の本堂、並びに山門の新築。
1923年 関東大震災
1931年 満州事変勃発
1931~1937年 白山から杉並への移転事業。
1937年 盧溝橋事件勃発・日中戦争の開始
1941年 隣寺の大乗寺の火災。
1945年 杉並堀ノ内一帯への空襲。

創建

 寛永年間(1624~43年)に正住院日協聖人によって開山されたとするが、何度も江戸の大火にあっているため確かなことは不明で、創建に関して種々の文献・資料が残っている。

(1)『改撰江戸志』

「開山は一如院日重上人で、上人は身延山(本山)第21世である。天正18年(1590年)で、はじめ下谷上野にあったが、寛永年間に上野寛永寺の境内に入ったため、その代替地として駒込白山の鶏声ヶ窪に移された。」

(2)『古跡寺社帳』

「身延山久遠寺末福相寺、駒込に移る。拝領地は境内356坪。」

(3)『新撰東京名所図会』

「福相寺は、大乗寺の南隣り、白山公園の北の崖の下にある。日蓮宗で身延山の末、正住山と号す。寺門は素木造であり、扉には井桁の紋章がある。本堂は北に面し、堂前に俵を踏まえたる石造ねずみ一対を置いている。お堂の後ろには小池がある。」

(4)『丙戊寺社書上』

「開山の日協上人は、寛文5年(1665年)1月13日に他界している。本堂や本尊は法華宗(日蓮宗)の定める通りである。木造で鍋冠日親聖人作の開運日蓮大士像がある。」

(5)『法華霊場記』

「開運祖師像  鍋冠日親上人が、長禄元年(1457年)51歳のときに、堺に登宝山本成寺を建立した際に、高祖日蓮大聖人の尊像を刻んだものである。その後身延山久遠寺第21代日重上人が京都本満寺にて引き継ぎ、それより日乾日遠日逸日理日稱と伝えて、この度福相寺に安置された。」

(当初鍋冠日親上人作の日蓮聖人像が安置されていたと記録にあるが、現在は伝えられていない。江戸時代の度重なる大火で被災したと考えられる)

満願大黒天の歴史

 寛政年代(1790年代)に福相寺第16世日元上人が関西遊化の際に、大阪の豪商佐藤氏当主が医薬の効果なく長病にかかっていたが、佐藤氏宅には最澄(伝教大師、比叡山延暦寺開山、767~822)作という「大黒天」が代々伝えられていた。この大黒天に甲子の日ならば円精をこめて7日間祈願を修めたところ、不思議にも病気が全快したという。そのためこの大黒天は江戸に運ばれ、福相寺の鎮護の善神「願満大黒天」として勧請されることになった。そして、次の福相寺第17 世日鷲上人の時代に大黒堂が建立されたと考えられる。寛政11年(1799年)に、森岡氏を願主に再建の石碑がつくられている(「南無妙法蓮華経 願満大黒天神 鶏声久保(駒込白山の窪地の呼び名)」)。

 その縁起を記した御札(写真)がつくられ江戸庶民に広く配られると、参詣者は徐々に増えていく。縁起木版の再販の記録には、文化13年(1816年)とある。その後、天保・弘化・嘉永の頃には、江戸庶民による福相寺・「願満大黒天」への参詣は盛大なものとなった。「版木の絵図」(写真)は、当時を偲ぶ好材料となっている。

 嘉永3年(1850年)この大黒堂の前に、1対ずつの「石造り鼠の像」「幟立て」「石灯篭」が奉納されている。石造り鼠像の台座(横~後ろ)には、願主に今津屋平右衛門、世話人に大阪の泉屋吉右衛門、釘屋重兵衛のほか、大阪12名、京都3名、泉州堺1名、江戸18名の商人の名前が刻まれている。鼠像の作者でもあろうと思われるが、石灯篭の裏側に、日本橋元大工町の石工金治郎名前がある。

 本堂にある「大太鼓」もこの年に奉納されている。

檀家総代の森岡家

 森岡家は、江戸時代は八幡屋、今津屋を称して、江戸橋のたもとにて居酒売渡世・鉄物渡世(打物砥石類)を業した。江戸時代より現在に至るまで福相寺の寺門興隆は、今も総代をつとめている森岡家の外護によるものである。現在の本堂棟札に記載され過去帳に転機された文を読むと、江戸の大火により福相寺は寛永から亨保に至るまで何度も被災したと思われ、亨保5年(1720年)以来、堂宇の改修が行われてきた。文政4年(1821年)森岡家主導のもとに大修繕を行い、大黒堂を新築して尊像(願満大黒天)を安置したと書かれている。また現在の本尊(林如水作)は文政6年(1823年)に森岡家より納められた。

 森岡家当主は代々菩提寺(福相寺)のほかに日蓮宗総本山身延山にも分骨を行っている。東谷の大林坊、大正7年より発軫閣(山之坊)に墓石がある。同年6代森岡平右衛門は、身延山三門前に鉄製の天水桶一対を寄進(太平洋戦争中に国に供出すると昭和32年再び寄進)。幕末明治維新の混乱期を経て、明治18年(1885年)森岡家が、福相寺の隣地を買収して崖を崩して平地とし庭園としたとある。また,現在の福相寺・本堂並びに山門は、第一次世界大戦中である大正7年(1918年)に白山の地に新築され、その後昭和12年(1937年)に解体され、現在の杉並の地に移築されたものである。移転によって空襲などの戦災から免れることができた。森岡家は、大正11年七面山登り口の羽衣橋を寄進。また昭和12年身延山奥之院に石灯篭一対を奉納している。

移転事業

 関東大震災(1923年)でも福相寺は焼失・倒壊することはなかった。東京市長である後藤新平の都市計画(モータリゼーション化)によって、郊外への行政指導移転を余儀なくされる寺院がほとんどである中にあって、福相寺はさらなる寺門発展を期して「自主移転」を計画する。福相寺第29世自正院日観上人のときである。『宗祖650遠忌報恩記念事業 福相寺移転寄付芳名簿』の「移転趣意」を読むと、「狭隘の現在地から、寺門繁栄と檀信徒先祖の墳墓の神聖化を目的に、交通便宜なる府下堀ノ内妙法寺の隣地を選び、以って永久安住の地とする」と記されている。それは、昭和6年(1931年、満州事変勃発の年)のことであった。移転事業完成は、昭和12年(1937年、盧溝橋事件勃発・日中戦争の開始)2月のことであった。同年4月に、身延山法主望月日謙猊下の大導師のもとに落慶式が盛大に挙行され、墓の移転改葬が行われた。

 寺と墓地の移転には福相寺の歴史の中でも一大事業となったが、特筆すべきは、移転直後の昭和16年(1941年)に白山の福相寺隣りにあった大乗寺に火災が起こり、福相寺も類焼の危険があったこと。また、昭和20年4月13日の空襲により小石川一帯は焼夷弾により灰盡と帰したことである。杉並堀ノ内一帯も同年5月25日の空襲で寺院も含め被災焼失したが、願満大黒天のご加護であろうか、これも免れることができ、移転事業は戦後福相寺発展の基礎となった。

 なお戦時中に、戦争協力のため、寺院の仏具その他金属類の供出がなされた。

戦後・平成

 昭和20年5月の空襲によって、堀ノ内周辺の各寺院も焼夷弾によって堂宇を焼失。その中で幸運にも妙法寺及び福相寺は焼夷弾が開かず難を逃れた。そのため江戸後期からの過去帳も残っている。戦後直後は被災された檀家が多く書院・本堂にて生活したと聞く。昭和32年8月第29世自正院日観上人ご遷化。第30世法灯を継承する。

 昭和39年の東京オリンピックにむけて環状7号線が完成し、高度経済成長に合わせて福相寺の檀家も、地元杉並、中野、世田谷を中心に徐々に増えていった。(写真)昭和63年に庫裡を改築、平成元年に完成する。(写真)

 平成16年4月第30世自明院日乗上人ご遷化。第31世(現住職)法灯を継承する。平成18年に駐車場整備、墓地拡張と建塀工事。平成21年に本堂及び山門の屋根瓦総葺き替え工事、昭和23年の東日本大震災の揺れにも問題なし。(写真) 平成27年には水場と納戸を新応接間・キッチン・トイレ・僧侶控室に改修。令和元年、男女別便所の全面改修完了。