本堂と同様に、大正7年(1918年)に白山(文京区)の地に建立され、昭和12年(1937年)に現在地(杉並区)に解体・移築された。福相寺の山門は、小さいながらバランスのとれたものとして、多くの宮大工や棟梁が参考に見学にくる。屋根は本瓦葺である。白山時代には願満大黒天を祀る大黒堂が、本堂とは別にあったが、移転時に大黒天を本堂内部左脇に安置することとなったため、大黒天正面の延長線上に山門の中心線が重なるよう設置された経緯がある。したがって山門の正面に立つと、願満大黒天の正面に向かって手を合わせることができるようになっている。そのため、大黒天の使神たる狛鼠像も山門と大黒天像の間に設置されており、山門・狛鼠像・大黒天像が一直線上に並ぶ配置となっている。ただ本堂と山門との距離が短く、寺観を狭苦しいものとしているのは、移転時の土地事情(いくつかの土地を合わせて墓地・境内地としたため)によるものと伝え聞いている。
本堂・山門と同様に、大正7年(1918年)に白山(文京区)の地に建立され、昭和12年(1937年)に現在地(杉並区)に解体・移築された。大玄関は来賓を招き入れるための入り口であり、おもてなしの大切な場所である。屋根が直線ではなくドーム型となっており、技術的にも強度的にも、やはり日本建築の素晴らしさを感じる。大玄関を入ると松の一枚板が廊下を貫き、今では材料が入手不可能であろう大きさに驚嘆する。入ってすぐに応接間兼「受付の間」が設けられている。
大正7年(1918年)、すなわち第一次世界大戦中に建立された、72坪もの総欅造りの本堂である。宮大工の棟梁が全国を廻って同じ太さ長さの欅の木をさがし、曲がらないように10年寝かし、製材してさらに10年寝かして、木の芯の部分を使わず柱をとり建てたと伝え聞いている。縁の下から屋根まで柱が貫き、下は敷石にただ乗っているだけという構成で組まれている。したがって腐ってしまう釘は一本も使用されていない。地震に対しては適度に揺れる柔構造となっており、筋交いはなく屋根瓦の重さで上から抑えているだけである。そのため大正12年(1923年)の関東大震災でも倒れず、平成23年(2011年)の東日本大震災でも瓦一枚ずれることがなかった。いにしえの日本建築の技術の蓄積の素晴らしさを感じざるを得ない。内部では、内陣から位牌堂にかけて床が漆塗りとなっており、入堂部の長い廊下は鶯張りとなっている。その他見事な欄間などすべて手作りとなっている。昭和12年(1937年)に現在地(杉並区)に移転の際、解体して移築された。屋根瓦と野路板は、平成19年(2007年)に全面改修を行っている。
普段の法事の際に使用する応接間となります。法要開始までの時間や法要後の時間をお過ごし頂いております。
普段の法事の際に使用する応接間となります。法要開始までの時間や法要後の時間をお過ごし頂いております。
移転前本堂は南を向いており、大玄関から本堂正面右側から入る構造となっていた。本堂に入るとそのまま真っすぐに袖廊下を通過して来賓質(本堂の奥)へ。訪客は西側の庭園を楽しみ、時間が来ると席を移動して本堂の法要に臨んだと思われる。しかし、移転時の土地事情から本堂が東向きとなったため、入り口も現在の場所に変更された。来賓室が遠くなって使用しづらくなってしまったが、実は福相寺で最も豪華な部屋であることに変わりはない。12畳の広さで、床の間も床柱も最高級である。天井板もすべて同一の木目調で統一されている。実際の5倍もの部材を集め、その中から木目の趣のあったものだけを使用していると聞いている。飾られている「正住山」(福相寺の山号)の額は、明治期の元内閣総理大臣である松方正義の書である。
普段の法事の際に使用する客間となります。法要開始までの時間をお過ごし頂いたり、法事の際のお食事をお召し上がり頂くお部屋となります。
昭和12年(1937年)に現在地(杉並区)に移転したときに増築されたものである。25畳の両脇に畳の袖廊下を配している。柱や天井板など一流の部材を使用し、床の間、欄間もすばらしく、伝統的佇まいが人々を落ち着いた雰囲気にさせる。北側に中庭、南側に広々とした庭園を眺めることができる。夏季には、少し高く造られた北側本堂縁の下の冷気が、北風によって書院に吹き抜けるよう工夫された構造となっている。
準備中。
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