文化財
本ページでは福相寺所蔵の文化財についてご紹介致します。
本尊
本堂正面の本尊
- 林如水 作 -

 日蓮宗の檀那寺の本尊は、釈迦如来像か日蓮坐像のみであることがほとんどであるが、福相寺の本尊は、中央の宝塔・釈迦如来・多宝如来その下の日蓮坐像だけではなく、両脇に四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)、文殊菩薩・普賢菩薩、不動明王・愛染明王、さらには四天王(持国天・毘沙門天・廣目天・増長天)まで、すべて木造曼荼羅でそろっている。

 特に中央の宝塔・釈迦如来・多宝如来の木彫は、文政6年(1823年)福相寺18世住職の時代に、福相寺の檀家総代である森岡平右衛門氏が、父母の菩提供養のため注文依頼したと伝えられ、京都の仏師「林如水」(第4代)によってつくられたものである。「林如水」は京都の代々の仏師であり、とくに第4代は名工として名高く、堀ノ内妙法寺の本堂に安置されている本尊もこの人の作と言われている。

願満大黒天
願満大黒天の像
- 最澄 作 -

 大黒天のもとはヒンドゥー教の破壊の神シヴァの化身であるマカカーラであり、経典には仏教を守護する「大自在天」として登場する。中国に伝播するまでは恐ろしい忿怒像としてつくられていたが、伝教大師最澄によって日本にもたらされると、“ダイコク”の音が日本の国造りをしたオオクニヌシ(大国主)の音と同一のため両者は習合して、インドの神マカカーラが日本では大国主之命に姿をかえて降り立ったという信仰となった。最澄作の三面大黒天は織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失しているが、もう一つの最澄作という大黒天が大阪の豪商佐藤氏に伝えられていた。寛政年代(1790年代)に福相寺16世住職が大阪遊化の際に、佐藤氏当主が医薬の効果なく長病にかかっていたが、この大黒天に甲子の日ならば円精をこめて7日間祈願を修めたところ、不思議にも病気が全快したという。そのためこの大黒天は江戸に運ばれ、福相寺の鎮護の善神として勧請されることになった。

※[1] 忿怒:ふんぬ。激しい怒り・憤りのこと。怒り・憤りを意味する漢語表現。
※[2] 習合:しゅうごう。幾つかの教義などを取り合わせ折衷すること。
※[3] 遊化:ゆけ。僧が諸所に出かけて人々を教化すること。
三十番神
三十番神

 大黒天の両脇には、左右それぞれ15体のお雛さまのような坐像が並んでいる。いずれも日本の神様で、天照皇大神、八幡大明神、春日大明神、鹿島大明神などである。言わば月一回の日直制のようなもので、日本国中の有名な神々が毎日御一体ずつ、この大黒天をお守りしている。1日は熱田大明神、2日は諏訪大明神、3日は広田大明神、4日は気比大明神……29日は苗鹿大明神、30日は吉備大明神と決まっている。三十番神信仰はとくに天台宗と日蓮宗で盛んである。福相寺の三十番神は、法華経守護の役割として勧請された。日本の仏教寺院に、大黒天という元はヒンドゥー教の神様が祀られ、それを守護するために日本の神々が安置されている。日本人は、何でも融合してしまうとても寛容な信仰を育んだと言える。

※[1] 勧請:神仏の来臨を願うこと。また、神仏の分霊を請じ迎えること。
大黒天縁起木版
大黒天縁起木版

 福相寺の願満大黒天が大阪から江戸に移ったのは、寛政年間(1789~1800年)のことであり、その後に大黒堂が建立された。寛政11年己未3月5日(1799年)、福相寺17世住職日鷲謹書による石碑には「南無妙法蓮華経 願満大黒天 鶏声久保(文京区白山神社下の窪地の当時の呼称)」と刻まれている。現在福相寺に残る、この大黒天由来を記した縁起木版(再販)がつくられたのは、文化13年丙午9月(1816年)と記録されている。福相寺の山門・大黒堂を描いた扇子とともに、この縁起パンフレットが配布されると、次第に参詣者が増えていき、天保・弘化・嘉永(1831~1855年)の頃には、福相寺の大黒天信仰が盛大となった。江戸の絵図(東都駒込)には、他のすべての寺院が寺号のみであるのに対して、福相寺だけ寺号とともに「願満大黒天」と記されている。石造りの鼠像も寺門興隆した嘉永3年(1850年)に作製され、現存する本堂の大太鼓もこの年に奉納されている。

※[1] 江戸の絵図(東都駒込):江戸切絵図(https://map.goo.ne.jp/history/edo/map/27/)
狛鼠像
山門入って正面の狛鼠像

 ネズミは古来より、神聖なもの、神の使いとして福をもたらすものと信じられてきた。日本神話では、根の国でスサノヲは広い野原の中に鏑矢を射込み、オオクニヌシにこれを取ってくるように命じる。彼が野に入ると、スサノヲは廻りに火をつけ彼を焼き殺そうとする。このとき地下の洞穴に彼を導いて救うのがネズミである。探していた鏑矢も持ってきてくれる。このことからネズミは大国主之命の神使とされ、大国主之命を祭神とする出雲大社の全国の支社を「子神社」という。「子」はネズミが立ち上がった様子を擬している。寛政年代(1790年代)に大黒堂が建立され、嘉永3年(1850年)にこの鼠の石像がつくられたとされており、願主には大阪12名、京都3名、泉州堺1名、江戸18名の商人の名前が刻まれている。石灯篭には日本橋元大工町、石工金次郎の名前に刻まれている。

聖観音像
木蓮横の聖観音像

 正式には観世音菩薩、「世の音を聞く」菩薩様である。「法華経」第25章に登場し、人々が「観音菩薩助けて!」と呼ぶと、33の姿に変身して人々を救いに行くと誓った菩薩である。どのような姿に変身するかは経典にすべて書かれている。そしてすべての人を救わないと自分は菩薩から仏にはならないと…… なんとも有り難い菩薩様である。境内の鬼門(東北)の位置に安置されているこの石造りの観音様は、森岡三重氏の寄贈によるもので、落ち着いた容姿と静かな雰囲気で周辺を見守ってくれている。昭和12年(1937年)に現在地杉並に移転した際、大きな置き石の上に観音像を立たせ、「この石は死んでいる」「生きている」と複数の植木職人がじーっと半日眺めながら、設置作業をしたと伝え聞いている。

※[1] 「法華経」第25章:妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五。
十一面観音像
十一面観音の木像
- 加納鉄哉 作 -

 書院正面の壁面にはめ込まれている「十一面観音像」は、明治初期に芸術大学教授として日本彫刻界で活躍した加納鉄哉の作品で、美術書にも掲載されている芸術作品である。「一木彫り」といって一枚の厚さ約5cmの板を彫り込んで像を浮き彫りにしたもので、加納鉄哉が奈良法華寺にある国宝の十一面観音像(丸彫り)を模して制作したと考えられている。奈良法華寺のものは直立であるが、福相寺のものは女性風に優雅に腰を折りながら立っており、あまりにもバランス良く立っているため、指摘されないと右腕が異様に長く造られていることに気がつかない。戦前には渡辺初男氏所蔵であったが、太平洋戦中に郊外の福相寺に避難させたことにより空襲による焼失を免れたため、戦後に寄贈され、本堂に安置されることとなった。

長谷川零余子 句碑
長谷川零余子 句碑

 長谷川零余子(1886~1928) 、大正〜昭和初めに活躍した俳人。長谷川かな女の夫。本名「富田諧三」群馬県出身。東京帝大薬学科卒。高浜虚子に師事「ホトトギス」の編集に携わる。後「枯野」を主宰、「立体俳句」を提唱、知識人層より支持を得る。かな女とは学生時代、英語の家庭教師をしていたことから結婚。昭和3年、山陰旅行から帰京後、腸チフスで亡くなる。42歳の若さであった。

※[1] 句碑(左):『爽やかな 大地に咲きぬ 花ほつほつ』
※[2] 句碑(右):『木蓮に 翔けりし鳥の 光りかな』
長谷川かな女 句碑
長谷川かな女 句碑

 長谷川かな女(1887~1969)、大正〜昭和を代表する女流俳人。高浜虚子の「ホトトギス」に参加、その才能を認められ女性俳人育成の幹事役を務める。父は日本橋、森岡鉄店の番頭、その縁で当寺に墓所を持つ。零余子と結婚。夫の主宰する俳誌を助け、夫亡き後は「水明」を創刊、主宰を務めた。

※[1] 句碑:『羽子板の 重きが嬉し 突かで立つ』